
鍵月本棚
留樹@tmiki888219991
暗闇を怖がっていた幼子は、いつしか夜道を一人行くようになった。
螺鈿細工のようだと弟が称えた星空には目もくれず、聶明玦は手元の灯りを頼りに進む。
幾許もなく探していた背中を見つけて足を止めた。
見上げる先、以前は物見用に使っていた楼の上階には透かし彫りの欄干が巡らせてある。
近づいてようやくそれとわかる階を、周囲に目を配りながら上りきった。
出入りする者も今では少なく誰の邪魔にもならないが、その分守りも薄い場所だ。
もっと警戒心を持てと、湧き起った微かな苛立ちのままに弟の名を呼んだ。
平然と振り向く顔は、無表情を装いつつも何故か微かな喜色を湛えて見える。
気付いていたのか、どちらにせよ驚く素振りは一切なかった。
「何をしている」
のんびりした風情で欄干に凭れたまま、宗主たる兄に手招きをする。
はたはたと右手に持った扇子で涼を取る弟の傍らで、古びた小卓の上の灯りが揺れた。
「決まってるでしょ、星見だよ」
天を仰げば、西方の空に沈みつつある細い月。
砕けた陶器の破片を撒き散らしたような星河。
連綿と続く天空の営みをその目に映す横顔は、陽光の下で見るより幾分か大人びている。
流転する小さな光の粒が天の導を、地の理を、人の世の行く末を告げるという。
途轍もなく壮大で茫洋としたその世界は聶明玦の理解の及ぶところではない。
信ずるに足るとそれでも思えるのは、ひとえに――……。
じっと注がれる眼差しを感じ取ってか、再び弟がこちらを向く。
「天文学なんて興味ないんじゃなかったの」
いたずらっぽく見上げる視線と裏腹に、声はまだ尖っている。
他家から助力を請われ、聶明玦はここ数日不浄世を離れて夜狩に赴いていた。
必ず修練に励めと言い置いて戻ってみれば、結局一度も刀を手にしなかったという。
落伍者と謗られてもどこ吹く風の聶懐桑は、書物の山の中で無防備に居眠りをしていた。
ばん!と怒りに任せて卓に掌を叩きつけると飛び起きて、数度の瞬きの後で暢気に笑う。
「帰ってくるの、今日だったんだね、よかった! おかえり。怪我がなさそうで何より」
「誰が怪我などするか! 今すぐ校場に来い、稽古をつけてやる」
「夜狩から戻ったばっかりなのにそれ? 少しはゆっくり休んだらいいのに」
「寝てばかりいる奴が甘えたことを」
「ずっと寝てたわけじゃない!私だってちゃんと…もういい、大哥にはわかんないよ」
ついと顔を逸らして去ろうとしたその肩に伸ばした手は思いの外強い力で振り払われた。
遠ざかる後ろ姿から目を背けて視線を落とす。
そこに散らばった物を見て思わず顔を歪めた。
「莫迦者め」
苦く呟いた言葉は、静まり返った部屋の中、自分一人の胸に落ちてゆく。
亥の刻に差し掛かる頃、再度弟の部屋を訪ねた聶明玦は散乱した紙を見て嘆息した。
羅列されているのは、何を意図してかもわからぬ星の名や時刻方角、書物の名。
連夜、邸を抜け出して遅くまで戻らない日が続いていると知ったのは、口論になった後。
留守の間に――兄が戻る前にやるべきことがあると、昼は書庫、夜は外に出て戻らない。
「年を取るはずですな。夜が怖いと泣いていらした方が、今では平気で一人歩きなさる」
己の胸の内を言い当てるかのような、壮年の家令の呟きに目を伏せる。
黙礼して去ろうとした男を呼び止め、彼が処分のために拾い集めた破片を受け取った。
艶やかな手触りを気に入って、懐桑が兄の分もと揃いで買ってきたものだ。
掌で卓を打った感覚と共に意識の端に追いやっていた小さな破壊音が蘇って胸に刺さる。
居所を考える前に足が外に向かい、難なく見つけた弟の隣で夜空を見上げている。
短慮なのは恐らく己の方であったのだと、常よりも荒い筆跡の走り書きを思い浮かべたが、掛けるべき言葉が見つからなかった。
だんまりの兄に呆れたのか業を煮やしたのかはわからないが、懐桑が空を指す。
「あの赤い星、わかる?」
濃紺の空、南側の低い位置に迷いなく伸ばされた白い指が明玦の視線を導く。
「|旱星《ひでりぼし》だよ。心宿の一部」
「二つ見えるが……どちらだ?」
「|大火《たいか》とも呼ぶけど、右の方。今年は輝きが強くて、そういう年は穀物がよく育つ」
理由はさておき、遡れば何度も同じ記述があるのだと語る言葉に、山積みの書物を思う。
「では、もう一つは」
「見たことないくらい大火に|熒惑《けいこく》……もう一つの赤い星が近づいてたから、何かの予兆かと思って調べてたんだ」
種明かしを聞けば天文に造詣が深い者として当然の行動だと、自責の念が募った。
「本によっては不吉の前兆とあるから気になって……ちょうど夜狩に出てる時だったし」
真剣な眼差しが兄を案ずる弟の、宗主の無事を祈る二公子の想いを直向に伝えてくる。
反射的に手を伸ばして額に、髪に触れた。
声が自然とこぼれて弟の名を呼び、「すまなかった」と音になる。
年若い聶の当主に|阿《おもね》りつつも、口さがなく余計な言葉を吹き込む者が外には大勢いる。
四季折々の風物に親しむ一方で刀が不得手な弟への嘲りは、いつも聶明玦を苛立たせた。
「もういいよ……その、私も、修練怠けてごめんなさい。たぶんまたやるけど」
顔を見合わせて、互いの瞳の中を覗き込んだ。
笑みを抑えきれないまま「反省になってない」と小突いた拳を受ける顔は妙に嬉しげだ。
つ、と視界の端を何かが横切った。
天空を、幾つもの軌跡が明滅を繰り返しながら無数の星の間を縫うように行き交う。
「凶兆か?」
「ただの流星。凶兆の時もあるけど、今日のこれは決まった時期に天を巡って還ってくる星だよ。今年は大哥と見られて嬉しい」
濃色の瞳に星の光を宿す横顔を見ながら、己の導となる星の在処を知る。
柔和な面差しに満面の笑みを浮かべて、懐桑が言った。
「明日は一緒に街に出ようよ、大哥」
「何をするんだ?」
「確か市が立つ日だよ。新しい茶杯が欲しいんだ。たまには一緒に見繕ってよ」
反対しようもなく「それならもう戻って休め」と言うと「やだよ」と舌を出して笑う。
「まだ帰らない」
今日はこのまま、一緒に星を見ていよう、と触れた腕。
夏の夜風に吹かれながら寄り添った記憶は、いつまでも胸に明かりを灯し続ける。
〈終〉