
鍵月本棚
留樹@tmiki888219991

吾所欲見非唯碧空
「大哥大哥、あれ捕って!」
ぼんやりと空を眺めていた弟に、突然袖を引かれた。
指差す先にはひらひらと風に舞う青い羽の蝶がいる。
刀よりも筆を持つ時間が長い、聶の子供。
足下ではなく天を見上げて歩いては躓いて泣き喚くのに、何度言い聞かせてもその癖は直らない。
お日様が眩しいね、お月様はどこに行ったの、燕が巣を作ったよ、支柱のてっぺんに蜻蛉が止まってるね。
例を挙げればきりがないほど、懐桑の興味はいつだって空と空を飛ぶものたちに向いているようだった。
「大哥〜、ちょうちょ捕って〜」
「蝶は捕まえたらすぐに弱ってしまうから駄目だ。それよりほら、ちゃんと下を見ろ、また転ぶぞ」
注意するそばからすっ転んで膝を擦りむいてまた大泣きし始めた弟にせがまれて、仕方なくその小さな身体を背負って歩く。
二人の顔の横を、二匹の蝶がすり抜けて行った。
風のない昼下り。
中天に差し掛かった太陽の熱を追い払うようにはたはたと扇子を揺らす。
大人になった聶懐桑は、もう空に気を取られたまま歩いたりはしない。
幼い頃、兄に言いつけられた通りに足元を見ながら歩く。
じりじりと日に照らされ続けた石畳に、不意に小さな影が差した。
右に左にふらふらと頼りなく揺れて、目の前を掠める。
(まったく、お前はなんだってそう、上ばかり見る?そんな風に足元が留守では今に大怪我をするぞ)
惰性で動かし続けていた扇子に煽られた蝶がひらりと顔の横に飛ぶ。
(大丈夫、もう転んだりしないよ、大哥)
あの頃より、随分用心深くなったんだ。
そして、空を見上げる理由ももうない。
季節ごとに色を変える空と、空を行く者たち。
それらと共に必ず瞳に映っていた横顔は行方知れずのまま、長い時が過ぎた。
連れ立って羽ばたく二匹の蝶は、蒼天に溶けるように遠ざかり、やがて見えなくなる。
〈終〉
吾見んと欲する所、唯だ碧空のみに非ず